東京地方裁判所 昭和47年(刑わ)5140号 判決 1974年6月27日
主文
被告人は、いずれも無罪。
理由
第一公訴事実の要旨
本件起訴状、第一回公判期日における検察官の釈明及び冒頭陳述によると、本件において検察官が処罰を求める公訴事実の要旨は、
「被告人は、
第一 赤津頴一郎、近藤雅之と共謀のうえ、
一、昭和四七年八月七日午後五時ころ、東京都新宿区新宿一丁目二番地坂栄第一ビル一〇階ワールド興業株式会社社長室において、被告人らの写真を撮影しようとした植原照子に対し、その肩を突いてソフアーの上に押し倒し、さらに立ち上つて写真をとろうとする同女に対し、被告人及び赤津が、それぞれ同女の腕をつかんでソフアーの上に押し倒す暴行を加え、
二、同日同所において、野崎左武英から退去を求められるや、被告人及び近藤において、同人の胸倉をつかんで押し、洋傘で同人の手を叩く暴行を加え、
第二 赤津頴一郎と共謀のうえ、
一、同月三〇日午前九時四五分ころ、前記坂栄第一ビル一階付近において、被告人らの写真を撮影した加藤裕康に対し、赤津及び被告人において、同人に体当りを加え、被告人において、手拳でその左顎部、頸部を殴打し、あるいは同人が手に持つていたカメラを引張る暴行を加え、よつて、同人に対し、加療約七日間を要する上唇裂傷、歯冠継続歯破損の傷害を負わせ、
二、同日午前一〇時一五分ころ、右同所付近において、森昭子に対し、同女に組みつき、同女が手に持つたカメラを引張る暴行を加え、同女に対し、加療約三日間を要する左栂指切創の傷害を負わせ
たものである。」というのである。
第二当裁判所の判断
一はじめに
当裁判所が取り調べたすべての証拠を総合すると、被告人らが、公訴事実記載の各日時・場所において、植原照子以下四名の者に対して、比較的軽微ではあるが有形力を行使し、そのうちの二名に対しては、軽微とはいえ傷を負わせた事実が認められる(ただし、右各有形力の行使の程度・態様は、必ずしも公訴事実記載のとおりではなく、傷の程度についても問題がある。これらの点については、後に詳述する。)。しかしながら、当裁判所は、右各有形力の行使は、それの行なわれた具体的事情のもとにおいてこれを見ると、未だ刑法二〇八条あるいは二〇四条により処罰するに足りるだけの実質的な違法性を具有する、可罰的な行為であると断ずることはできないと考えるものである(なお、前記公訴事実第二、一に対応する事実については、かりにこれが同法二〇四条の構成要件に該当すると仮定しても、後記のとおり、正当防衛として、その違法性が阻却されると解する余地もある。)。以下、順次その理由を説明する。
なお、以下における当裁判所の事実の認定は、言うまでもないことながら、当公判廷において取り調べた積極・消極のすべての証拠を比較対照し、その証拠価値を仔細に検討した末、これらを総合して行なつたものである。したがつて、認定した事実に対応すべき証拠をもれなく掲げようとすれば、結局すべての証拠を掲げなければならなくなり、かえつてその実質的意味が乏しくなるので、とくに重要な点については、項を分つて裁判所の心証形成の過程を別途説明することとし、それ以外の点については、逐一証拠の標目を掲げることを省略した。また、以下の説示において、「供述」とは証人の公判廷における供述を、「審問」とは、東京都地方労働委員会(以下、都労委という。)の審問速記録をそれぞれ指し、引用するかつこ内の数字は、上段が記録の冊数、中段が公判期日の回数、下段が当該公判期日における該証人の供述速記録の丁数を示す。
二認定事実
1 MRSの解散までの経緯
被告人は、昭和四五年三月に、明治学院大学社会学部を卒業し、その一年後、同大学英文科(夜間部)三年に再入学したものであるが、同四六年三月ころ、株式会社千代田ハウスリペア(代表者土山忠夫。以下、千代田ハウスという。)の事業部長加藤裕康、(昭和八年八月一二日生)が、個人の資格で請負つた英会話カセツトテープ教材(テープレコーダーを含む。)の販売事業「松本享と母と子の英会話教室城西分室」(以下、城西分室という。)の内勤の事務職員として、月給四五、〇〇〇円で右加藤に雇われた。ところで、右城西分室は、小学生、幼稚園児用の英会話のテープ教材の販売及びそのアフターケアーとしてのレツスン管理を営業目的とする株式会社イングリツシユ・コンパニオン(以下、E・コンパニオンという。)から、形式上、右千代田ハウスが、右教材販売の一部を請負い、加藤がそれをさらに下請負して運営することになつていたが、右は、もつぱら税金対策等の形式を整えるためのものであり、実質的には、加藤が、E・コンパニオンから教材販売を直接請負つて、運営していたものである。加藤は、右千代田ハウスの事務所(東京都杉並区善福寺町一丁目六番一五号)に事務所を置き、当初、妻徳永節子のほか若干名の販売員を通じて右テープ教材の販売を行なうに過ぎなかつたが、昭和四六年九月ころ、E・コンパニオンから、教材販売のアフターケアーとしてのレツスン(テープ教材の購入者の子弟に対し、幼稼園施設を利用して、外人講師等により行なう英会話のレツスン)の管理を一部請負つたのを機に、その組織を「母と子の英会話サークル本部モテイベイシヨン・リサーチ・セクシヨン」(通称、MRS本部。以下、MRSという。)と改称し、外人のインストラクターや学生のアシスタント等をも雇入れて、従来のテープ教材の販売一本槍から、レツスン管理部門にも力を注ぐよう営業方針を変更したため、従来、内勤の事務職員として稼働していた被告人はもとより、テープ教材の販売員として加藤と労働契約を結んでいた赤津頴一郎及び近藤雅之らにおいても、販売業務だけではなく、レツスン管理に関する業務にも従事するようになつた(なお、赤津、近藤に対する賃金の支払方法は、被告人の場合と異り、固定給と歩合給の混合形態であつて、右両名は、月額一定額((赤津は当初一万円、後に二万五、〇〇〇円、近藤は一万円))のほか、教材の販売数量に応じた歩合給を受け取ることになつていた。)。
ところが、右レツスン管理業務が開始されたころから新規に開拓すべき市場が次第に払底し、さらには強力な競争会社が出現した等の理由により、テープ教材の売上げが落ちはじめ、以前より経営が苦しくなつてきたことに焦慮した加藤は、新たな部門を開拓して業績の向上を図ろうと考え、その具体策を摸索していたが、服飾英会話ないしフラワーデザイン英会話の分野に野心を示し、同四七年一月ころには、近藤らの協力を得て、その分野で使用する専門用語を集めて吹き込んだテープ教材を用意する一方、同年二月一日には、日本フラワーデザイン協会理事長と親交のある野崎佐武英を月給一〇万円で新たに雇い入れ、その助力を得て事業を建て直そうとした。これよりさき、加藤の営利一辺倒でレツスン軽視の営業方針に不満を感じ、かつまた、将来の身分上の保障もない自己の立場に不安を感じた被告人は、同年一月下旬ころ、加藤に対し、自己の退職を申し出たが、逆に同人から、「今後一年間同業者につくな」「回覧板をまわして、同じ仕事をさせないようにしてやる。」などと怒鳴りつけられてしまつたため、いよいよ同人のやり口に不信の念を強めたうえ、職場の同僚である前記赤津、近藤及び島田(旧姓堀)瑛子(以下、堀という。)、斉藤由美子らにその事情を打ち明けたところ、これがきつかけとなつて、かねがね加藤のやり方にひそかに疑問を抱いていた同人らの不満が一挙に爆発し、右赤津らは、自己らの労働条件の向上を図るため、同年二月一三日、MRS労働組合(執行委員長赤津、書記長近藤、他に組合員五名。以下、MRS労組または組合という。)を結成するに至つた。被告人は、同年三月一〇日、右MRSを退職したが、組合結成に至る端緒を作出した者としての責任もあり、かつまた、加藤のやり方を批判する組合の主張に共鳴して、右MRS労組結成と同時に、組合員としてこれに加入し、引続き赤津らと行動を共にすることになつた。
翌一四日、組合は、加藤に対し、組合結成の事実を告げたうえ、第一回目の団交を申し入れ、労働協約の締結等を要求したが、加藤は、組合員との関係は使用者、被使用者の関係ではないから、組合は認めないとの、かたくなな態度に終始した。他方、組合結成の事実に驚いた加藤は、同月一七日、組合員だけでなく、非組合員たる徳永、野崎をも加えた、いわゆる全体会議を招集し、その席上において、「従来の英会話サークルの仕事は、実質上、徳永、野崎の両名に任せ、自分は新会社を新設して新たな仕事をはじめる。組合員中、砂原、持田、斉藤の三名は、徳永らのもとに残り、赤津、近藤、堀の三名は、自分と行動を共にしてもらいたい。」との趣旨の提案(いわゆる会社二分割案)を行なつたが、右提案が、組合の分断工作ではないかと不安を持つた組合は、右会議の席上及び同日夕刻再度持たれた団交において、加藤の行なおうとする新たな仕事の内容を聞きただしたけれども、この点に関する同人の話は、きわめて抽象的で具体性を欠き、新会社の事務所の所在はおろか、その行なおうとする業務の内容も明確にされなかつたので、組合側を容易に納得させるに至らなかつた。翌一八日に持たれた団交において、加藤は、組合から、「加藤の提案は、根拠のないもので、組合の分断工作である」旨激しく追及されるに及び、「そんなことを言うなら、全員解雇だ。」などと言い出し、さらに追及されて、いつたんは右発言を取り消したが、このような加藤の態度に、組合側の同人に対する不信の念は、いつそう強まつた。一方、加藤も、同日の団交における組合の激しい追及により、前記の会社二分割案が、組合の分断工作であつたとの趣旨の文書に署名したり、謝罪させられたりしたことなどから、組合をいつそう嫌悪するようになり、この際、企業をいつたん廃止した形式をとつて、赤津らとの契約を解除し、組合を壊滅させてこの窮状を切り抜け、然るべき時期を見て再起を図ろうと考えるに至り、同日、翌一九日に団交を持つことを確約して組合の追及から解放されるや、ただちに、野崎、徳永らと連絡して自らの意向を伝え、同日中に事務所の備品、帳簿類を運び出すよう指示したうえ、E・コンパニオンの常務取締役平田淳三に電話をかけ、ことのいきさつを説明して、当面E・コンパニオンとの前記請負契約を解消した形をとりながら、同社の事務所の一画において、従前のレツスン管理に関する営業を続けることの了承を得た。加藤は、翌一九日夜、事務所において団交の開始を待つていた組合員らに対し、とりあえず電話で、「赤字の累積が甚しくて、もうやる気がしないので、全員解雇する。」との趣旨を伝える一方、赤津、近藤、斉藤、砂原、持田ら組合員に対し、「E・コンパニオンの委託を受けて行なつてきたMRSの業務は、都合により同社との契約を解消して業務を同社に返上し、今後右業務は無関係になつたので、従来の契約関係を解消する。」との趣旨の内容証明郵便を発送し、右各書面は、同月二一日各組合員に到達した。
2 八月七日に至るまでの経緯
前記のとおり、平田の了解を得た加藤は、徳永、野崎らをして、MRSの営業に必要な備品、帳簿類をE・コンパニオンの事務所の一画に運び込ませたうえ、非組合員たる池内、柳沢らのほか、外人講師ジユデイ・クレイグらを使用して、右事務所において、依然として従前どおり、レツスン管理の業務を継続していたが、組合から不当労働行為として追及されることをおそれ、前記のとおり、E・コンパニオンとの請負契約を解消して自らはMRSを廃業したこととし、右レツスン管理業務は、E・コンパニオンが名目上の主体となつて、徳永、野崎らを使用して行なうとの形式をとつたけれども、自らも時折り出勤して、従業員に対し、必要な指示を与えるなどしていた。ところで、加藤は、同年三月二〇日ころ、「屋内遊戯機器及屋外遊戯機器の輸出入及国内販売並びに賃貸業務」などを目的とするワールド興業株式会社(資本金三〇〇万円。本店所在地、東京都新宿区新宿二丁目三一番地。以下、ワールド興業という。)の社長今井孝雄と知り合い、金策の依頼などするうち、英会話教育関係の事業に興味を持ちその方面の事業に見込みありと考えた同人が、E・コンパニオン名義で行なつている前記レツスン管理の業務を引き受けてもよいとの意向を示し、関係者間で話合いが持たれた結果、「加藤は、自らがE・コンパニオン名義で行なつているMRSの営業をワールド興業に全面的に譲渡し、他方、ワールド興業は、加藤を従業員として雇入れる。ただし、加藤の従前の負債及びすでに解雇した組合員との紛争は、同人の責任において解決する。」との趣旨の合意がまとまり、今井は新たに、同区新宿一丁目二番地坂栄第一ビル一〇階に事務所を開設し、同年四月一日以降、加藤、徳永、野崎らは、同社に出勤するようになり、レツスン管理業務は、爾後ワールド興業の責任において行なわれることとなつた。
一方、組合員らは、加藤から、前記契約関係解消の通知を受けた直後、MRSの事務所の貸主たる千代田ハウスの社長土山から、右事務所の退去を求められたこともあつて、解雇の不当をますます痛感し、加藤に団交の申入れをしたが、同人の所在が判然とせず、団交に応ずる気配が見られなかつたので、同年二月二八日、都労委に対し、MRS経営責任者加藤裕康を相手方として、「団体交渉と解雇撤回及び原状回復、労働協約締結」を求めるあつせん申立て(執行委員長赤津頴一郎名義)をした。しかし、都労委のあつせんによる団交の席上における加藤の説明は経営が赤字であり、これを続けていく意思がなくなつたというだけの抽象的なものに終始し、右赤字の根拠や詳細についての誠意ある説明もなされなかつたので、右団交は決裂し、組合は、同年三月三〇日、都労委に対し、右加藤及びE・コンパニオン常務取締役平田淳三を相手方として、解雇撤回、原職復帰及びバックペイの支払等を求める救済申立てをするに至つたが、同年四月になつて間もなく、英会話サークルの母親からの連絡により、加藤らが、前記坂栄第一ビル一〇階ワールド興業の事務所で「英会話サークル東京センター」名義により、レッスン管理の業務を続けていることを探知した。赤津、近藤及び被告人らは、同月一八日ころ、右事務所に赴いて同人に団交を求め、付近の喫茶店「ニレ」において団交を持つたところ、途中より右団交の場に現われた今井は、「自分は、この会社を新しく始めた者で、加藤が君たちと問題を起こしていることは知つているが、加藤は私が新たに雇入れたのであるから、その問題は同人と別にやつてもらいたい。ただ、自分としては、右の問題の解決の労を取るのにやぶさかでない。二時から四時までは、必ず会社に居るから、電話してくれれば、その身柄を差し向けよう。」との趣旨の説明を行ない、さらにその後、付近の公園における話合いにおいて、加藤も、「君たちがそれほど自分との仕事を望むなら、自分が今井に優先雇用の話をしてあげよう。」との趣旨の発言をした。そして、その後において、今井も、加藤との問題が解決した場合には、赤津、近藤らをワールド興業へ採用することもあり得るとの趣旨にとれる説明をしたので、この段階で、組合は、やや態度を緩和させ、右今井発言を前提として、当面加藤に対し、解雇撤回とバックペイの支払いを認めさせたうえで、ワールド興業への優先雇用を請求することとし、五月一八日ころ、赤津、近藤、堀、斉藤、砂原、持田の計六名の二月一九日以降のバックペイ合計九四万円の支払いを求めたが、加藤が、右支払いについて、「せいぜい三〜四〇万円しか手持ちがなく、しかも月賦でしか払えない。」との素気ない回答をしたので、ここに団交はふたたび暗しように乗り上げた。組合員らは、加藤の誠意のない態度に憤慨し、このうえは、MRSの営業を全面的に引きついだと見られるワールド興業の社長である前記今井をも、団交の当事者として交渉の場に引き出し、直接交渉するほかはないと考え、同月二〇日、都労委に対し、前記救済命令の申立ての相手方として、ワールド興業社長の今井孝雄をも加えた書面を提出したが、他方、ワールド興業がMRSの業務を実質上引きついで行なつていることを疏明して、同社の団交の相手方としての当事者適格を立証する必要を生じ、同月二七日ころ、カメラマン一名を伴う数名で、前記坂栄第一ビル一〇階の事務所に赴き、事務所内の状況(加藤、今井の顔写真を含む。)を写真撮影し、備付のパンフレット若干を持ち去つたところ、今井はこれを、建造物不法侵入及び窃盗として、警察へ告訴するに至つた。
その後、組合は、内容証明郵便などにより、再三にわたつて、今井に団交に応ずるよう求めたが、同人が一向これに応ずる気配を見せないので、焦慮の末、同年七月八日ころ、MRS労組の支援団体員を含む十数名で、前記坂栄第一ビル一〇階の事務所へ赴き、今井に対し、レッスン管理業務の経営権譲受けの相手方などについて追及したところ、当初警察へ通報して、その場を切り抜けようとした今井、加藤も、頼みの警察が、労使の問題であるから当事者同士でよく話し合うようにと言い置いて、不介入の態度を示すに及び、やむなく約二時間半にわたつて右話合いに応じ、途中、今井が、支援団体員中の通称シマなる男(以下シマという。)となら話合いを続けてもよいと言い出したため、右話合いは、両名間で後日さらに続行されることとなつた。
シマは、その後二回にわたつて、今井と話し合つたが、組合側の言い分と今井の言分が大幅にくいちがうため、独力でことを解決することを不可能と悟り、今井に対しふたたび赤津、近藤らと直接話し合つてもらうこととして、同年八月五日(土曜日)昼ころから話合いを持つとの約束(ただし、緊急の事態に備え、組合側は前日までに、必ず今井と連絡を取ることとされた。)をとりつけた。同月二日、緊急の用向きで甲府へ出張する必要を生じた今井は、同日「五日までに組合から電話があつたら、つぎの土曜日にしてもらうよう」言い置いて出発したが、手ちがいのため、今井との前記留保事項を知ることができなかつた赤津、近藤らは、同月五日当日になつて、はじめて電話連絡をとり、坂栄第一ビル一〇階の事務所に赴いたけれども、今井は出張のため不在であり、その直前まで組合員と電話で応待していた加藤も、気配を察知して所在をくらませてしまつた。そのため、赤津、近藤らは、次回の団交の予定日として、同月七日(月曜日)午後二時ないし四時を書面で指定し、抗議書を書き置いて、ひとまず同所を引き上げた。
3 八月七日の被告人らの行動(1)(前記公訴事実第一、一に対応するもの)
赤津、近藤及び被告人の三名は、八月七日午後五時近く、坂栄第一ビル一〇階の事務所に赴き、奥の社長室において、仕事の打合せ中であつた今井及び加藤に対し、口ぐちに、「約束を破つて卑怯者」「団交にどうして応じないんだ」などと、同人らが五日の団交に応じなかつたことに大声で抗議しはじめたところ、予め被告人らの来ることを予知し、カメラ(オリンパスペン・ハーフサイズ)を用意してその場に居合わせた植原照子(当時二七才位。ワールド興業女子従業員)が、後日の証拠にするため、いきなり所携のカメラを構え、約三メートルの至近距離から、被告人らの写真を撮影しようとしたため、これに気付いた被告人が、「写真なんかとるな」などと言いながら、手でカメラのレンズをふさぐような形で、激しく同女につめ寄ると、その気勢に押された同女は約1.5メートル後方のソファーまであとずさりしたうえ、その上に倒れ込むようにして座り込んだ。被告人は、あとからかけつけた赤津とともに、ソファーに座り込んだ同女のカメラを奪おうとして手をのばしたりしたが、間もなく、右の騒ぎに気付いた近藤から、「女なんかに手を出すな」と制止され、いつたんその場を離れて、今井、加藤に対する抗議に参加した。ところが、その直後、ふたたび立ち上つた植原が、またもや至近距離から被告人らの写真をとろうとしたため、これに気付いた被告人は、赤津とともに、勢よく同女に接近し、手をのばして同女のカメラを奪おうとし、後退する同女の左肩を手で一、二回押したので、同女は付近のソファーの上に腰を落とした。その際、赤津もカメラを取ろうとして、同女の腕を引張つたり押したりした。被告人はソファーの上に倒れ込んだ同女の上におおいかぶさるようにし、いつたん同女からカメラを奪い取つたが、同女が、「カメラがこわれるから返して」などと大声で騒いだため、ただちにこれを返還した。
4 八月七日の被告人らの行動(2)(前記公訴事実第一、二に対応するもの)
そのころ、右の騒ぎを聞きつけ、隣室(事務室)から野崎が社長室入口付近に現われ、今井、加藤と対峙していた被告人らに対し「君たち出ていつてくれ。」などとくり返し叫んだため、被告人は、ふり向きざま同人に近づくや、手で小突くように一回同人の胸を押して、同人を社長室から退去させようとしたが、植原に制止されてただちにやめ、ふたたび今井、加藤に対する抗議に戻つた。そのあと、今度は、赤津、近藤の両名が、野崎に抗議しながら激しくつめ寄り、気勢に押された同人は、社長室入口付近から事務室中央付近まで、約五メートル後退した
5 八月三〇日の被告人らの行動(1)(前記公訴事実第二、一に対応するもの)
被告人及び赤津、斉藤らは、同年八月三〇日午前九時三、四〇分ころ、前記坂栄第一ビル入口前歩道上において、今井、加藤らのやり口を非難し、解雇された組合員の立場の正当性を訴える趣旨の宣伝ビラ(「幼児教育で飯を食う利権野郎共に鉄槌を」という題ではじまる、昭和四八年押第六四七号の1と同文のもの)を通行人に配付していたが、折から右ビル入口付近に現われた加藤が、右状況を写真に撮影すべく、ひそかにこれに接近し、数メートルの至近距離から、赤津及び被告人の写真を、所携のカメラで二、三枚撮影し、さらに撮影しようとしたため、これに気付いた赤津が、「写真なんかとるな。」などと口走りながら勢よく同人に接近し、続いて被告人においても、同様のことを叫びながらこれに続き、同人に写真撮影を中止させようとした。しかるに、加藤は、これを意に介さず、その場を立ち去ろうともしないので、被告人及び赤津は、このうえは、実力をもつて同人からカメラを取り上げ、その写真撮影を阻止しようと考え、その際、多少身体が接触して、有形力を行使する結果となるもまたやむなしとの気構えのもとに、まず被告人において、左側から激しく同人につめ寄り、カメラを取ろうとしたが、その際、被告人の上体が、やや激しく同人の左肩と接触した。続いて、赤津は、やや後退した同人の背後にまわつて、これを羽がいじめにし、被告人も左方から同人に迫り、カメラを奪われまいとする同人の手を振り払うなどして、しばらく同人ともみ合つたが、右もみ合いの際、被告人の身体の一部が、比較的激しく同人の左あごに接触したこともあつて、同人の抵抗が衰えたすきに、被告人において、同人の手からカメラを引張りこれを奪い取つた。加藤は、被告人との右二度目の接触による衝撃のため、加療約七日間を要する上唇裂傷、及び歯冠継続歯破損の各傷を負つた(なお、被告人は、右カメラからフィルムを取り出そうとしたが、カメラの開け方がわからなかつたので、間もなく赤津において、これを前記一〇階事務室へ持参し、徳永を通じて加藤に返還した。)
6 八月三〇日の被告人らの行動(2)(前記公訴事実第二、二に対応するもの)
その後、同日午前一〇時一五分ころ、被告人らが、前記歩道上でふたたびビラ配付を行なつていた際、加藤が殴打されたとの話を聞いた野崎が、自らも右ビラ配付の状況を写真にとつておこうと考えて、森昭子(当時二三才)ほか二名の女子従業員を従えたうえ、同ビル一階入口エレベーター前付近に現われ、ビラ配付中の被告人らにカメラを向けて構えた。これに気付いた被告人は、赤津とともに、すばやく同人のそばにかけ寄り、手でカメラを奪おうとしたが、同人が突嗟に両手をうしろにまわして、後方にいる前記森にこれを手渡したので、被告人は、同女に近寄り、両手でカメラのボデーを持つている同女から、これを引張るようにして右カメラを奪い取つた(なお、被告人らは、右カメラからフィルムを抜き取ろうとしたが、カメラの開け方がわからず、間もなく、同所付近にいた女子従業員の一人に返還した。)森は、右カメラを引張られた際の衝撃により、加療約三日間を要する左拇指切創の傷を負つた。
三個々の争点に対する判断及び事実認定の補足説明
1 MRS労組は、労働組合法二条にいう労働組合に該るか。
右の点につき、検察官は、赤津らの加藤との契約関係は、テープ教材の委託販売契約であつて、その報酬の前記(第二、二、2)のような支払方法や、勤務時間・勤務場所の拘束がないこと等から見ても、これを雇用契約ないしこれに準ずるものと見ることができないから、同人らは、労働組合法二条にいう労働者とはいえず、したがつてまた、同人らの組織したMRS労組は、同条にいう労働組合に該らない、と主張している。
たしかに、赤津らの報酬が、主として教材売上高に対する歩合により支払われており、その勤務時間、勤務場所に関する拘束が、比較的ゆるやかであつたこと等は、証拠上検察官の指摘するとおりであつたと認められ、これらの点からすると、加藤と赤津、近藤、堀らとの法律関係が、雇用でなく、委託販売契約(請負ないし準委任の趣旨か)であつたとする検察官の主張にも、傾聴すべき点のあることは否定できないが、当裁判所は、つぎのような理由により、右の契約関係が典型的な雇用契約といえるものであつたかどうかはしばらくこれを措くとしても、少なくとも、これに類似した一種の無名契約として、労働法上の保護に値するものであつたことは、明らかであると考える。すなわち、
(1) 赤津らの仕事の性質並びに勤務の実状から見て、赤津の日常の行動は大幅に加藤によつて支配されており、赤津らは、加藤に対し従属的立場にあつたと見ざるを得ない。まず、赤津、近藤の各供述、被告人審問により赤津らの仕事の内容を見ると、そのテープ教材販売の業務は、単に右教材の注文を取つて歩けば良いというのではなく、その前提として、東京都内ないし近郊の幼稚園と交渉し、これを会場とする幼児のための英会話サークルを開設し、その教材を販売するというもので、その教材の売上げをのばすためには、常時新たなサークルを開設し、さらに既設のサークルを維持管理していく必要があつたのである。そして、赤津らは、各地の幼稚園へ出張して、右サークルの開設等の仕事をする一方、随時加藤の指示により、適宜アシスタントとして、レッスン管理上必要な労務の提供をせざるを得ず、その仕事の内容は、この点において、通常の販売委託契約とは、かなり異つたものであつた。さらに、右教材販売業務だけについてこれを見ても、限られた市場を態率良く開拓するため、加藤は、各販売員が担当すべき地域を適宜割り当て、販売員同士が現地で鉢合わせすることのないよう配慮しており、したがつて、各販売員は、右割り当てられた区域を越えて、自己の販路を拡張することはできなかつた。また、販売員が、園長の了承を得て、サークル開設にこぎつけた時でも、生徒募集のための説明会やモデルレッスン等の日程は、加藤の予定を無視してはこれを定めることができず、既設のサークルにおいて、新クラスを増設するかどうかとか、人数の少なくなつたサークルを閉鎖するかどうか等の重要な決定は、すべて同人の行なうところであり、赤津らは、右加藤の決するところに従つて行動していたために過ぎない(のみならず、加藤は、教材の売上げが落ち込みはじめた昭和四六年一二月ころになると、各販売員に対し、月間の売上げについての目標台数を指示し、E・コンパニオンから受け取る自己の報酬を一定水準以上に維持しようとしたことすらある。)そして、赤津らは、毎日定刻に出勤することを要求されてこそいなかつたけれども、加藤は、少なくとも一日一回は必ず、各販売員に自己と電話連絡することを求め、また、随時行なわれる会議(ミーティング)へも出席させて、自己の営業方針の徹底を図つていたというのであるから、赤津らの行動は、右のような勤務時間・勤務場所の拘束性の弱さにも拘らず、大幅に加藤によつて支配されていたと考えるのが相当である。
(2) 赤津らに対する前記のような報酬支払の方法も、同人らを労働者と認定するうえで、何らの妨げとなるものではない。賃金を、固定給だけで支払わず、これに出来高払制を加味して支払う方法は、一部の業界において、往々にして見られる賃金の支払形態であつて、それ自体、格別労働契約と矛盾するものではないが、ここで注目すべきことは、とくに赤津の契約締結の場合においては、それが、固定給、完全歩合給と並ぶものとして提案されていることである。加藤は、右のうち、固定給の場合だけが雇用であり、他の二つの場合は請負である旨供述しているが、同人も、右提案にあたつて、時間的拘束の有無以外に、右二つの場合が固定給の場合とどう異るのかを説明していない。もしも、加藤のいうように、固定給の場合とそれ以外の場合とで、その契約の性格が決定的に異るというのであれば、そのような性格の異るものを、何らの説明なしに三つ並べて提案し、相手方の選択に任せるというのは、いささか非常識のそしりを免れないのであつて、むしろ、右のような提案の仕方をしたことから見て、加藤自身も、当時右三者がいずれも労働契約であることを前提としながら、たんなる賃金の支払方法の差異として認識していたのではないかと推察される。また、当初固定給(月額四五、〇〇〇円)で、内勤の事務職員として雇われた堀は、その後、加藤の指示により、内勤事務のほか、教材の販売部門をも担当するようになつて、その報酬の支払方法も、固定給と歩合給の混合形態となり、さらに昭和四六年一二月以降においては、次第に販売の仕事に専念するようになつたというのであるが、もしも、加藤の説明のとおりであるとすると、当初同人と労働契約を締んだ堀は、その後いずれかの時点において労働者たる地位を喪失しながら、その時期がまことに明確でないだけでなく、労働者たる地位を喪失した前後における労働条件がさして大きく異らないという奇妙な結論となるのであるが、これなどは、加藤の説明の不合理さを端的に物語るものといえよう。
(3) 赤津らは、従来この種教材販売の業務について、特別の知識経験を有していたわけではなく、補助者を使用する等の資力・才覚もないのであつて、加藤の指示なしに独力で営業の主体となつて活動するだけの実力は、とうていこれを持ち合わせていなかつたと見るほかはない。加藤は、この種業界においては、請負がむしろ常識であつたとして、自己とE・コンパニオンとの契約の場合を例に引くが、それとこれとは明らかに事情を異にし、一方の法律関係をもつて他方のそれを類推することは、もとより許されることではない。
(4) このように見てくると、赤津、近藤らが、加藤から受領していた報酬は、「労働の対償」たる賃金(ないしはこれに準ずる収入)というを妨げないこと明らかであるというべく、したがつて、これによつて生活していた赤津らが、労働組合法三条(または労働基準法九条)にいう「労働者」であると認めるべきことも当然であろう(なお、検察官が論告において援用する最高裁判所の判例((最判昭和三六年五月二五日・民集五巻五号一三二二頁))は、本件と事案を異にし、適切な先例ということができない。)。そうすると、MRS労組は、労働者が主体となつて組織した適法な労働組合であると認めることができるから、同組合が、使用者加藤に対し、憲法及び労働組合法によつて保障された団体交渉権を有することは、いうまでもないことである。
2 加藤の組合員らに対する「契約関係解消の通知」を不当労働行為と認めた理由
当裁判所は、前記のとおり、加藤のMRSの解散とこれを前提とするレッスン管理業務のE・コンパニオンへの移転は、組合の活動分子を解雇するための偽装であり、赤津、近藤らに対してした「契約関係解消の告知」は、不当労働行為であつたと考える。その理由は、つぎのとおりである。
(1) 昭和四七年二月当時、加藤がMRSを廃業する実質的な必要があつたかどうかは、はなはだ疑問であり、廃業の通知をする直前に至るまで、その営業意欲は、むしろ旺盛であつたと認められること。
まず、加藤の強調するように、当時MRSの経営が極度の不振で、先行きのめどのつかない状態であつたかどうかについて考えると、昭和四六年暮ごろから、市場の払底と競争会社の出現等により、教材の売上げが減り、経営が以前より苦しくなつていたことは、多くの関係者の供述が一致するところで、事実であると認められるが、MRSの経理の実態を示す帳簿類が一切提出されていない本件においては、「その累積赤字が、三〇〇万円近くに達していた」との加藤供述の信びよう性を客観的に担保すべき資料は、まつたく存在しないのである。しかも、かりに、当時MRSにある程度の赤字のあつたことが事実であるとしても、それは、加藤にとつて、回復不可能と思われるようなものではなく、それが原因でMRSを廃業しなければならないような状況ではなかつたと認められる。現に、加藤は、右経営を打開するため、昭和四六年一二月には、新たに、持田、砂原ら数名の従業員を雇入れ、経営の拡大を企図する一方、新たな部門である服飾あるいはフラワーデザイン関係にも野心を示し、同四七年一月ころには、近藤らの協力を得て、その分野で使用する専門用語を吹き込んだカセットテープ教材を準備し、同年二月一日新たに、日本フラワーデザイン協会理事長と親交のある野崎を高給で雇入れ織田服装学院で説明会を開くなど、着々と新たな企画を準備し、その営業意欲は、むしろ旺盛であつたと認められるのである。加藤は、その後においても、池内、柳沢らを雇入れ、二月一六日には、京王プラザホテルに外人講師を集めてミーティングを開くなど、一八日の企業廃止の決定に至る直前まで、その意欲は、まつたく衰えていない(加藤自身、組合結成直後の二月一四日の団交の時点では未だ倒産を考えていなかつたことを認めている。一―二―三三)。そして、MRSの財政状態が、その後二月一九日までの間に決定的に変化したとの証拠はまつたくないから、加藤をして廃業という非常手段をとらせた決定的な原因は、その経営状態の悪化ではなく、組合活動の活発化に伴つて生じた組合に対する嫌悪の情であつたと認めるのが相当である。なお加藤が組合幹部を解雇したい意向を有していたことは、二月一七日に提案されたいわゆる会社二分割案の内容からもかなり明らかであると認められるが、このことは、逆に加藤が、組合活動分子を解雇できさえすれば、現在の企業を継続していきたい強い欲望を持つていたことを推測させるものである。
(2) 加藤の廃業の仕方が、はなはだ不自然であること。
加藤供述、平田審問によると、二月一八日夜、組合との団交からようやく解放された加藤は、ただちに、徳永、野崎に電話で連絡し、MRSの営業に必要な備品、帳簿類一切を運び出させ、他方、Eコンパニオンの平田常務と連絡して、赤字は自分の方で始末し、従業員とのトラブルもE・コンパニオンには持ち込まない、E・コンパニオンには迷惑をかけない、との約束のもとに、同社との業務委託契約を解除したうえ、以後同社が引き取つて行なうレッスン管理のアフターケアーをさせるため、現場の仕事のよくわかる徳永・野崎をつけてやつた、ということになつている。しかし、加藤が真実MRSを廃業して、その後は、右営業と一切無関係になるというのであれば、当時、一刻一秒を争う緊急の必要があつたとも認められないのに、何故に、その廃業をそれほどまでに急いだのであろうか。経営の規模こそさして大きくないとはいえ、当時約一〇名を越える従業員を抱え、レッスン管理の責任のある英会話サークルも一〇〇個所に達する企業の責任者となれば、その責任は決して軽くはなく、従来の加藤の旺盛な営業意欲から見ても、しかく簡単にその廃業に踏み切れるものではないと思われる。しかも、加藤は、右のような重大な決定を電話一本で、徳永、野崎や平田常務に伝え、右に伴つてE・コンパニオンに移転することになつた徳永、野崎らの処遇等につき、何ら実質的な話合いもないまま、いとも簡単に関係者の了承を得たという。徳永・野崎といえば、二月一七日の時点において、いつたんは加藤から、実質上MRSの経営を任すといわれた腕ききの二人であり、とくに野崎は、その直前高給をもつて迎えられた者で、彼自身も、この仕事に強い意欲を持つていたはずである。彼らが、加藤からの電話一本で、将来に対する何らの保障はおろか、現実の処遇についても、ほとんど説明らしい説明を受けないまま、「レッスンの終戦処理だけを目的」とするE・コンパニオンの営業に従事するため、かくも唯々諾々と同社への移転を承知したというのは、いかにも不自然ではなかろうか。当裁判所としては、もとより直接の証拠こそないけれども、MRSの業務が、形式上E・コンパニオンに移転した後においても、経営の窮極の責任は加藤が持ち、機を見て再起するとの合意(明示又は黙示の)があつたればこそ、はじめて右のようなことが可能となつたのではないかと考えるが、いかがなものであろうか。
(3) E・コンパニオンへの移転後のレッスン管理業務に同社が実質上まつたく関与しておらず、むしろ、加藤が、事実上従業員に対し、種々の指示を与えていること。
関係証拠によると、E・コンパニオンへ移転後のレッスン管理業務は、形式上同社の名前で行なわれるようにはなつたけれども、実質上、徳永・野崎が、MRS当時の従業員である池内・柳沢や同じく外人講師ジュディ・クレイグらを使用し、「独立採算制」で行なつていたとされており、E・コンパニオンは、事務所の一画を提供する等のほか、右の営業には、まつたく関与していなかつたことが明らかである。他方、加藤は、その後においても、時折りE・コンパニオンの事務所へ足を運び野崎らの相談に乗る一方、将来の再起に備えて、一時帰国するジュディ・クレイグに対し、インテリヤ・デザイン関係の文献の収集を依頼する等している。もとより、この期間、加藤は極力経営の表面に立つことはしていないが、右のような経営の実態に加え、MRS当時の負債は、E・コンパニオンには帰属せず、一切加藤が引き受けるとされていたこと、その後のワールド興業への営業の移転も、少なくとも加藤の口ききで行なわれたことが明らかであり、実質上加藤と今井の間で決定された疑いが強いこと、加藤と徳永は、当時未だ夫婦であり、永年仕事をともにした関係もあつて、表面上はともかく、ひそかに緊密な連絡を取り合うことが可能であつたと見られること、等の諸点をもあわせて考察すると、E・コンパニオンの事務所において行なわれたレッスン管理業務について、加藤がまつたく無関係であつたと考えるのは、いかにも不合理であり、むしろ、右は、加藤がE・コンパニオンの名をかり、徳永・野崎を使用して、MRS当時の営業を、実質上継続していたものであると解する余地は十分あるといわなければならない。ちなみに、二月一七日の全体会議において加藤から提案されたいわゆる「会社二分割案」によると、MRSの経営は実質上徳永・野崎に任されることとされたのであるが、それは、あくまで加藤の下請けとしてであり、その窮極の責任者は、あくまで加藤となるはずであつたというのである(加藤供述二―三―四五、九―一二―四三)。加藤は、右二分割案により、MRSからいつたん組合幹部を排除しようとしたけれども、組合の反撃にあつてこれを果たさず、今度はMRSの廃業という形式を踏むことによつて、これとほぼ同一の結果を得ようとしたと推認するのが、むしろ合理的ではないかと考える。
3 組合の今井に対する団交権の存否
関係証拠によると、E・コンパニオン名義で行なわれていたレッスン管理の業務をワールド興業に移転する際の当事者間の話合いの主たる内容は、前記のとおり、「加藤は、自らがE・コンパニオン名義で行なつているMRSの営業をワールド興業に譲渡し、ワールド興業は、別途加藤を従業員として雇い入れる。ただし、ワールド興業は、加藤の従前の負債は引き受けず、また、加藤が解雇した組合員との紛争は、同人の責任において解決する。」というものであつたと推認される。右契約の法的性格は、必ずしも明らかではないが、加藤からワールド興業への営業の譲渡とワールド興業と加藤との雇用契約が合体して行なわれた一種独特の契約であつたと考えるほかはない。ところで、一般に営業の譲渡に伴つて、譲渡人と従業員との労働契約関係が、当然に譲受人に承継されるかについては、見解の分かれるところであるが、「右労働契約関係は、右譲渡に伴い原則として譲受人に移転するが、当事者間に特段の合意のあつた場合には移転しない」とするのが、有力な学説・裁判例の説くところであり(大阪高判昭和三八年三月二六日、判例時報三四一号三七頁、大阪高判昭和四〇年二月一二日、判例時報四〇四号五三頁、我妻栄・民法講義V3五六八頁)、当裁判所もこれを相当と理解する。ところで、本件においては、加藤と今井の間で、すでに加藤が解雇した労働者との紛争を、ワールド興業が引継がない特約があつたと見ざるを得ないから、組合としては、同社が、従前のMRSの営業を実質上引き継いで行なつているからといつてその一事から、当然に同社の社長たる今井に対する労組法上の団交権を有することにはならないといわざるを得ない。
しかしながら、このことは、今井が組合に対し、何らの義務をも負担しない、ということを意味しない。今井が、加藤からMRSの営業を譲受けた真意が奈辺にあつたのかは、証拠上必ずしも明らかではないが、ワールド興業が、定款の目的を変更してまで、新たな分野である英会話教育関係の仕事を引き受けた経緯から見て、少なくとも、純粋な人助けや慈善事業のつもりでなかつたことは、明らかであると考えられ、MRSの従来のレッスン管理組織、加藤、徳永、野崎らの経験、手腕、才覚、ノーハウなど、有形無形の資産を活用し、従来のやり方に一部手直しを加えることによつて、相当の利益を上げ得ると考えたからであると推認するのが相当である。そして、今井が、加藤から右営業を引継ぐにあたり、加藤が解雇した組合員との間で紛争が生じていることを知悉しながら、あえて自らその紛争の当事者となることを避け、加藤の責任においてこれを解決させようとしていたことも、前認定のとおりである。このように今井は、加藤の組合員との従前の紛争を知悉して同人を雇用し、その手腕・経験を活用して同人が従前行なつていた営業を実質上継続させて、自己の利を図りながら、右紛争の当事者となることだけは、あえて回避しようとした者なのであるから、少なくとも、組合員が加藤に対する団交を求めて自己の企業施設内に立ち入る程度のことはそれが社会通念上著しく相当を欠く不当な方法によるのでない限り、これを許容し、受忍すべき条理上の義務があると解せられるし、また加藤に対する団交の申入れが勤務時間中であつたとしても、そのことの一事をもつて、直ちに該団交申入れを今井らが拒絶しうると解するのは相当でなく、他に特段の事情がない以上、これを許容し、受忍すべきものというべきである。
4 植原、加藤、野崎の写真撮影行為の正当性の有無
本件における被告人らの行為の可罰性を考えるうえで、植原らの写真撮影行為が、法律上許される限界内のものであつたかどうかは、重要な意味を持つと考えられる。
ところで、人がその承諾なしに、みだりにその容ぼう姿態を撮影されない自由を有し、警察官が、正当な理由もないのに、個人の容ぼう等を撮影することが、憲法一三条の趣旨に反して許されないことは、すでに最高裁判所大法廷判決(最判昭和四四年一二月二四日刑集二三巻一二号一六二五頁)の示すところであり、右判例によると、警察官による個人の容ぼう等の写真撮影は、①現に犯罪が行われもしくは行なわれたのち間がないと認められる場合であつて、②証拠保全の必要性および緊急性があり、③その撮影が一般的に許容される限度をこえない相当な方法をもつて行なわれるときは、被撮影者の同意がなく、また裁判官の令状がなくても許されるとされている。右判例は、警察官の写真撮影行為の許される限界についてのリーディングケースともいうべき事例であり、本件のように、撮影者が一般私人である場合のその適法性の限界についても、基本的にはこれと同一に考えてよいであろう。
ただ、撮影者が警察官でなく、一般私人である場合に右基準を適用するにあたつては、たとえそれが、犯罪捜査に協力し、あるいは自ら告訴告発するための準備として犯罪行為と目される状況を写真に撮影しようとするときであつても、なお、つぎの諸点に注意する必要があると思われる。すなわち、まず、私人は、捜査の専門家である警察官と異り、一般に犯罪の捜査の経験がないのが通常であるから、前記①の要件の認定にあまり厳格なものを要求すると、撮影者に酷な結果を生ずることがある。この場合は、その撮影の目的が犯罪捜査への協力等という公益に資するものである限り、撮影される状況は、何人にも現に犯罪の行なわれていることが疑いを容れない程度に明白な場合でなければならないものではなく、社会通念上犯罪と疑われる行為が現に行なわれもしくは行なわれた後間がないと認められる状況であれば足ると解すべきであり、かりに捜査の専門家あるいは事情を知悉する者から見れば、いささか犯罪性が稀薄でその撮影の適否が疑問となるような場合であつても、これを犯罪行為と認めてした撮影行為は、これを正当として保護しなければならない場合もありうると考えられる。しかしながら他方、私人は、警察官と異り一般に犯罪捜査の責務も権限もないのであるから、もしも警察官に通報する時間的余裕がある等他に取るべき手段があるときは、被撮影者の人権侵害を伴いがちな写真撮影行為を自らこれを行なうのをできる限り慎しみ、権限を有する官憲の捜査にこれを委ねるのが筋であろう(ただし、刑訴法二一二条の要件を満たす場合は、別論である)。したがつて、前掲最判の要件②の判断は、右のような意味において、撮影者が警察官の場合よりも、やや厳格に理解して適用する必要があると考えられる。
そこで、以上の観点に立つて、本件における植原、加藤及び野崎の各写真撮影行為の正当性の有無について検討する。
(1) 植原の場合
植原の写真撮影の目的について、植原自身は、検察官の尋問に答え、「菊地さん達が前に来たときに、会社の写真をとつていつたと聞いていたので、私達は、会社の仕事をじやまされているわけですから、自分の会社で写真をとるのは、別にいけないことではないし、そういう意味でした。」と供述しているが、さらに、「何か証拠にとつておこうというつもりだつたんですか」との質問に対し、「それもあります。」「仕事をじやまされないようにしたかつたわけです。」とも答えている。右植原供述によると、同女は、右写真撮影に際し、被告人らが前に勝手に写真をとつていつたのであるから、こちらが写真にとつてどこが悪いのかという素朴な疑問を持つていたが、それと同時に、会社と直接関係のないはずの被告人らに仕事をじやまされたことについて、将来そのようなことのないようにするための証拠とするつもりもあつたことがうかがわれ、その目的は、一応公益に資する場合であつたと考えてよいと思われる。もつとも、右撮影が、植原自身の判断によるものか、あるいは、加藤、今井らから命ぜられてなされたものかについては、右撮影に至る経過からみて、後者ではないかとの疑問がないわけではないが、今井はこれを否定しており(三―五―二九)、植原自身も、「自分でとりたくてとつた」旨明言している(三―四―五七)のであるから、ここでは、植原自身の前記供述を措信して、前者の場合であると考えるほかはない。そこで、前記①ないし③の各要件の存否について考えると、八月七日当日の被告人らの行動は、すでに認定したとおりであり、前記(第二、三、3)の理由からして、それは必ずしも、建造物不法侵入あるいは威力業務妨害罪を構成するものではないけれども、いささか穏当を欠く行動であり、組合と加藤、今井との従前の関係をよく知らない第三者から見れば、右のような犯罪が成立しているのではないかと見られてもやむを得ない場合であつて、証拠保全の必要性、緊急性も認められるから、右植原の写真撮影行為は、これを違法とまで断ずることはできないと思われる。しかしながら、植原は、ワールド興業の従業員で、純然たる第三者ではなく、被告人らと今井、加藤の従前のやりとりをも、ある程度これを知つており、いますこし慎重に判断すれば、被告人らの行為が、ただちに犯罪を構成するたぐいのものではないことがわかつたはずであつて、事情を深く確めることもせず、予めカメラを用意して、被告人らが立ち現われるや、ただちに、至近距離からその写真をとろうとした行為は、その意味において、いささか軽率かつ性急であるといわれてもやむをえず、その方法も、かなり執ようで挑発的とも受け取られかねないものであつたから、右は、なお妥当を欠く措置であつたとの非難を免れないと思われる。
(2) 加藤、野崎の場合
八月三〇日当日における被告人らの行動は、前記のとおり、坂栄第一ビル入口付近の歩道上で、通行人にビラを配付していたというものである。ところで、検察官は、右行為は、業務妨害ないし名誉毀損の犯罪を構成するから、加藤らの写真撮影は正当であると主張する。しかし、当日被告人らの配付していたビラの文言(とくにその見出し)に、いささか粗野で刺激的な部分のあることは明らかであるにしても、その内容は、組合と今井、加藤との交渉の経過を説明し、同人らの非をなじる趣旨のものに過ぎず、ただちに右各罪の構成要件該当を疑わせるような不穏当な文言を含んでいるとは即断できないのみならず、右各行動が、加藤らの行動に対する不満を一般大衆ないしワールド興業の従業員に訴え、世論の支援を得て、闘争を有利に展開しようとの立場で、すなわち、組合活動の一環として行なわれたものと認められることなどをも考え合わせると、これを目して、社会通念上犯罪と疑われる行為が現に行なわれていると考えるのは、かなり困難であるといわなければならない。したがつて、組合との従前の交渉の経過を知悉する加藤や野崎が、これをもつて、何らかの犯罪の疑いありと考えたとすれば、右の判断は、いささか常識外れであるとの非難を免れないであろう。しかのみならず、かりに、右撮影が、前掲要件①を辛うじて満たしていると考える余地があるとしても、右は明らかに、前掲要件②(すなわち、証拠保全の必要性、緊急性)を欠く場合であつたというべきである。すなわち、当日、加藤は、九時一〇分ころ、徳永とともに、喫茶店「ニレ」へ赴く途中すでに、被告人らが路上でビラまきしているのに気付いており、九時半すぎに、自ら写真をとりに行くまでの間に、被告人らとの間で、「ビラ配りをよせ。」などとやり合つた経緯があり、それにも拘らず被告人らは、ビラ配りを中止しなかつたというのであるから(一―二―一〇五)、加藤が真実その際の被告人らの行動を、犯罪の疑いありとして警察へ申告する意図であつたのであれば、その時間的余裕は十分あつたというべきであり、余計な紛争の種となるような写真撮影を自ら行なう必要は毛頭なかつたと考えられるのである。それでは、それにも拘らず、加藤が、当日配付されていたビラの内容を確めることもせず、かつまた、警察へ事態の報告をすることもなく、ただやみくもに、自ら被告人らに接近してその写真をとろうとしたのはなぜであろうか。加藤が、被告人らのビラ配りにより、付近の人に対する信用を傷つけられたということ(一―二―一〇五)や、顧問弁護士から「証拠写真をとつておきなさい。」といわれていたということ(右同)も、右写真撮影の動機の一つといえないことはないであろう。しかし、加藤は、すでに八月七日の経験により、被告人らが写真にとられることを極端に嫌つていることを知悉していたものである。したがつて、被告人らが当日重ねて、しかも、組合との団交に誠実な応待すらしていない当の加藤本人から、路上でいきなり写真をとられれば、ふたたびカメラの奪合いに発展するのが必至であることは、加藤にとつて、容易に理解することができたと考えられる。右の点を念頭に置いて、加藤の前記行動を考えると、右写真撮影の時点において、同人が果たして、真実被告人らの行為に犯罪の疑いありと考えていたのかどうか、はたまた、これを犯罪として警察へ申告する意図を有していたのかどうかは、かなり疑問であるといわなければならず、むしろ、たんなるビラ配りだけでは警察が自己の思惑どおりに動いてくれないことに焦慮した末、右のような行動に出ることにより、被告人らとの間で八月七日のような一種の混乱状態を誘発し、その機を把えて警察へ申告するつもりであつたのではないかとすら疑われるのである。もしも、加藤の写真撮影の目的が右のような挑発的なものであつたとすると、その撮影行為の違法性は、それ自体で明白であることになるが、かりにこの点が検察官主張のとおり、被告人らの行為を犯罪の疑いありとして警察へ申告するためのものであつたとしても、右撮影が、少なくとも、前掲要件②を欠くという意味において、社会通念上正当として許容される限界を逸脱していることは、明らかであると考える。
つぎに野崎の場合は、その写真撮影の違法性は、いつそう明白である。野崎は、同日一〇時一〇分ころ、被告人らのビラ配りを目撃しながら出社し、いつたん同ビル一〇階の事務室へ上つたのち、カメラを携行してふたたび同ビル入口付近に立ち現われ、写真をとろうとしたものであるが、同人が出社したのは、すでに加藤が赤津らともみ合いを演じ、同人が口から血が出たということで、警察へ被害を申告したあとであつて、間もなく警察官が現場へ到達することが予想される状況であつたのであり(現実にも、警察官は、間もなく現場へ到着している。)しかも、その間に被告人らが現場を立去る気配があつたわけでもないから、そのような状況のもとにおいて、野崎が重ねてビラ配りの状況を写真にとる必要は、ほとんどまつたく存在しなかつたといつてよい。右写真撮影の目的について、野崎自身は、「八月一八日に、近藤、赤津から暴行を受け、これを四谷警察署へ告訴してあつたが、弁護士から、証拠になるようなものはないかといわれており、犯人の一人の赤津がいたのでその写真をとろうとした。」とか、「何回も会社に押しかけてきていやがらせをするが、警察へ通報すると帰つてしまう。それで、その日のビラ配りの証拠にしようとした。」との趣旨の供述をしているが(三―五―四四)、これらの野崎供述を十分念頭において、その写真撮影の必要性について再考してみても、前記の結論は、なんら変わらないというべきである。なお、野崎の場合については、当日すでに生じていた加藤と組合員とのトラブルを承知しながら、さらに写真をとろうとしたという意味において、加藤の場合以上に、挑発の疑いが強いと考えられるが、これ以上この点に立入ることは差控えることとする。
5 公訴事実記載の有形力の行使を一部認めなかつた理由
(1) 八月七日の植原に対するもの
右の点に関する検察官の主張中、被告人及び赤津が、植原の「腕をつかんで押し倒した」事実及び近藤が共謀者としてこれに加担した事実は、これに副う証拠がまつたく見当らないが、それのみならず、検察官主張の第一回目の暴行については、検察側の証人の供述に、つぎのような矛盾や混乱があつて、これを確認することができない。すなわち、右の点につき、被害者たる植原自身は、当公判廷において、当初検察官の尋問に対し、「被告人が三メートル位のところから近付いて来てソファーに倒された。そのとき左肩に衝撃を感じ、カメラを取ろうとした手が当つたんだと思うが、目がねがずり落ちた。」との趣旨の供述をし(三―四―九ないし一一)、弁護人の「ソファーには自分で坐つたのではないか」との尋問に対しては、「そうではない」旨、従前の供述を維持したが(三―四―三六ないし三九)、「……一瞬のことですから、押されたから坐つたか、というような質問……」と、いささか自信のなさを示す供述をもし(三―四―四〇)、さらに裁判官の補充尋問に対しては、「足がソファーに当たつてバランスを失つて倒れたという可能性もあると思う。はつきりしない。まあ、はずみで坐つたことは十分考えられると思う。」「ソファーに倒れる前に誰かが体に触つたかは記憶がない。」旨従前の供述を大幅に変更したばかりでなく(三―四―六三以下)、それに続く検察官の「そうすると、その前後ははつきりしないけれども、押されたことは押されたと、こういうことになりますか」との尋問に対し、「もうわからないということにして下さい。」「私最初に言つたことは間違いとして下さい。押されませんでした。ほんとうにわかりません、そんな一瞬のことは。」という供述をするに至つたのである(三―四―六六)。右供述の経過からも明らかなとおり、植原自身は、被告人から激しくつめ寄られ、カメラを取られまいとして後退した末、後方のソファーに倒れ込むような形となり、その際、左肩に衝撃を感じ、目がねがとんだりしたことがあつたので、被告人から肩を突かれたりしたものと思い込んでいたものであるが、その点をよくよく考えて見ると、果たして、押されて倒れたのか、後退できなくなつて自分で坐り込んだのか、あるいは、さらに後方にのがれようとしてバランスを失つて倒れてしまつたのかはつきりせず、そもそも肩に衝撃を受けたこと自体についてもあつたのかどうかすらはつきりしない、というのが現在のいつわらざる記憶であると考えられる。ところで、右第一回目の暴行については加藤以外に会社側の目撃者がおらず(徳永が目撃したのは、第二回目の暴行であると認められる。)唯一の目撃者である同人の供述は一見検察官主張の趣旨に副うように思われるが、一瞬の目撃であつて、見間違いや思違いがないとはいえないし(現に、同証人は、その直後、被告人が同女からカメラを奪つた旨明らかに事実に反する供述をしている。一―二―九二。なお、植原供述三―四―一二参照。)、その供述全般に、いささか誇張的な表現が見られることなどをも考えあわせると、これらの証拠のみをもつては、すでに認定した事実の限度において被告人の行為を確認できるに過ぎず、かりにその際被告人の体の一部が植原の肩に当つたことがあつたとしても、そのことの故をもつて、被告人が同女を「突き倒した」とか「押し倒した」などという表現が妥当するような行動があつたとまで断定することはできないというべきである。
(2) 八月七日の野崎に対するもの
被告人が、社長室入口付近に現われた野崎に対し、小突くようにしてその胸を一回押したことは、野崎及び加藤だけでなく、比較的中立的立場にあると見られる植原もこれを確認しており、事実であつたと認めるほかない(なお、野崎は、被告人に胸ぐらをつかまれたともいうが、植原供述に比照し信用できない。)。しかし、植原供述によると、被告人は、同女に制止されて、ただちにこれを中止したというのである(三―四―一八)。そして、同女は、それに引きつづいて行なわれたという近藤の野崎に対する暴行を一切目撃していないので、右被害に関する野崎供述の信びよう性については、いつそう慎重な検討が必要であると考えられる。野崎供述の要旨は、「被告人に押されて、約二メートル後退した後、今度は、近藤に衿首をつかまれて押され、事務室の伊藤の机の前あたりにまで来たところ、植原が止めに入つて、近藤は手をはなした。……そのあと、警察を呼ぼうと電話を取ろうとしたら近藤がかさで右手をぴしやりとたたいた」というのであるが(三―五―二三ないし三一)、これを支持すべき積極証拠としては、加藤の「菊地と近藤が、二人がかりで野崎の胸を手で押して、事務室の電話付近まで押していつた。その後、徳永が電話をかけようとしたら、近藤がそれをたたいて阻止した」(一―二―九七ないし九九)という供述があるだけである。そこで、右の野崎及び加藤の各供述と前掲植原供述等を比較し、その信ぴよう性を吟味してみると、まず、野崎のいう「電話をとろうとしたら、近藤が、かさでぴしやりとたたいた」との事実については、これを目撃した者が一人もいない点が注目される。野崎は、被告人らを社長室から退去させるべく、わざわざ社長室へ出向いた者であり、それが、逆に近藤らにより社長室から追い出される形となつたのであるから、当時、野崎と近藤のやりとりは、混乱する事務所の中でも、かなり目を惹く動きであつたと考えられ、とくに、近藤は、下駄ばきではちまきをし、折りたたみのかさを持つという、比較的目につき易いいでたちであつたのであるから(加藤供述、一―二―八七)同人が野崎の手をかさでたたくというような明白な有形力の行使をしたのに周囲の者がこれに誰一人気付かなかつたというのは、いささかふに落ちないところである。現に、そのころ徳永が電話をかけようとした際、近藤がかさで電話のプッシュボタンをたたいて通話を妨害した事実については、加藤、植原、赤津らが一致して目撃しており、近藤自身もこれを認めているのであるから、これとほぼあい前後して前記のような暴行がなされたとすれば、そのうちの一人位は、これを目撃していてもおかしくはないのではなかろうか。つぎに、近藤が野崎の衿首をつかんで押したとの点についての野崎供述は、加藤供述によつて支持されているかに見えるが、加藤供述では植原によつて制止されて、小突くのをやめたはずの被告人が、近藤とともに野崎を押していつたことになつているし、また、その目撃位置から見ても、果して近藤が、野崎の胸を「押して」室外に出したのか、それとも近藤が弁疏するように、「出ていけ、出ていけと上体を野崎の方に進ませると、野崎は距離を保ちながらあとずさりして行つた」(六―九―八〇)のかを、明確に識別することは困難であつたのではないかと思われるのであつて、野崎供述は、この点においても確実な支えがあるとはいえない。そこで、野崎供述が、他に確実な支えがなくても、それ自体として高度の信ぴよう性を有すると考えてよいかについて検討するに、野崎の会社内における立場、加藤、今井らとの関係、組合との折衝の経緯などに照らし、同人が被告人らに対し、強い反感ないし憎悪の念を有することは明らかであり(野崎も、あえてこの点を隠そうとしていない。四―六―五八)、同人が事実をいささか誇張ないしわい曲して供述するおそれはないとはいえないから、その供述に、それ自体として高度の信ぴよう性があるとはいえない。ちなみに、被告人は、当日野崎にTシャツを破られた旨強く主張しているところ(六―一〇―三七)、右供述は、近藤供述(六―九―四〇)だけでなく、植原供述(三―四―四四)によつても支えられており、事実と認められるのであるが、野崎は、極力これを否定している。この点なども、野崎供述の信ぴよう性を検討するうえで見逃し得ない点であろう。
以上のとおりであるとすると、被告人が植原に制止された後における近藤らの野崎に対する有形力の行使は、結局これを認めるに足りる確実な証拠がないということになる(なお、かりに、近藤の右行為が認められると仮定しても、右は被告人の有形力の行使とは、時間的、場所的にずれており、植原によつて制止され、有形力行使を中止した被告人に対し、その後において行なわれた右近藤の行為についての刑責を負わせるに足りるだけの意思連絡が、両者の間に瞬時にして形成されたと見るのも、かなり困難ではないかと考える。)
(3) 八月三〇日の加藤に対するもの
まず、赤津及び被告人が加藤に体当りをしたとの点について考えるに、この点に関する被害者加藤の供述は、目撃者たる植原の供述によつて支えられ、一見措信できるかに見えるのであるが、前記のとおり、加藤は当日、被告人らとの間で一種の混乱状態を誘発しようとの意図すらあつたのではないかと疑われる者であつて(前記第二、三、4、(2))、そのような立場にある者が、事実を一部誇張しないしはわい曲して供述するおそれのあることは、見易い道理であるから、該供述の信ぴよう性の判断は、いつそう慎重でなければならないと思われるのみならず、植原も、その目撃位置目撃状況から見て、どの程度事実を正確に知覚し、記憶できたかにつき、一抹の不安を免れないものであるところ、右加藤らの供述には、なお、つぎのような疑問を容れる余地がある。すなわち、(ア)加藤が赤津に体当りされたという点については、植原によつて確認されておらず、植原供述の趣旨は、むしろこれを否定するにあると認められる(三―四―二四)。したがつて加藤は、まずこの点において、事実を誇張した供述をしている疑いがあること。(イ)被告人が加藤に体当りしたとの点については、両供述がほぼ一致するかに見えるが、植原は、弁護人の反対尋問に対し、「菊地は、加藤に対し、『写真をとるな』といつて、その前でいつたん立ち止つた」とお趣旨の供述もしており(三―四―五四)、少なくとも、当初主尋問に対して答えた「すごい勢で体当りしてきた。体ごとぶつかつてきたんです。……ボンと。」との供述は、かなり割引きして考えざるを得ないこと。(ウ)被告人が、当初の植原供述のいうように、「すごい勢で」「体ごと」「ボンと」体当りをしたものとすると、当時無防備状態にあつたと思われる加藤は、おそらく路上に尻もちをつくか、少なくとも大幅に後退することになるのが自然であると思われるが、加藤自身の供述によつても、路上に尻もちをついた事実はうかがわれず、その供述する後退の幅も、あまり大きくないこと(二―三―一二七ないし一二八)。なお、植原供述によると、右体当りにより、加藤は、歩道との境目付近から、一挙に、エレベーター前の階段付近までよろけてきたこととされているが((三―四―二六))、この点は、右加藤供述に比照し、いささか正確でないと思われる。)。(エ)被告人らが、終始カメラを奪おうとの目的のもとに行動していたことは、植原供述によつても認められるところであるが、カメラを奪うためには、加藤に右のような激しい体当りを加える必要はなく、被告人がいきなり加藤に激しい体当りを加えたと考えるのは、その後の被告人らの行動から見ても、いささか唐突の感を免れないこと。(オ)植原は、エレベーター前の階段付近から、当初、加藤の姿のみを見ていたところ、そこへ突然赤津が、続いて被告人が現われ、勢よく加藤に接近してきたため、いささか狼狽気味であつたのではないかと考えられるので、判示のように、被告人の身体が加藤の左肩にやや激しく接触し、加藤がよろけるように後退した状況を目撃すれば、これをことさらにした体当りであると受取る可能性はありうること。以上の諸点を総合考察した結果、当裁判所は、加藤及び植原の供述する被告人の「体当り」の実体は、判示認定にかかる程度のものであつたと認めるのが相当であると考える。
つぎに、被告人がその後加藤の左顎部、頸部を殴打したとの事実の有無について考えると、右の点については、加藤も、「左あごに衝撃を感じた。」「げんこつで、右腕でやられたんじやないかと……。全然見えませんけれども。」「瞬間的にそう思つたわけです。」「なんか、ガンというふうな感じだつたです。」「左あごを突き上げられるような感じだつたんです。その時に歯と唇をかんじやつたんじやないかと思うんです。」などと供述するだけで(一―二―一一三ないし一一五)同人自身も、被告人から殴打された瞬間を現認していない。同人が、瞬間的に被告人から殴打されたように感じたとの点は、紛争の渦中にあつた同人の直接の体験に基づく感想として、もとより、その証拠価値を過少に評価することはできないけれども、カメラを取り上げようとして、加藤と一種のもみ合い状態にあつた被告人の身体の一部(たとえば手やひじなど)が、比較的激しく同人の左顎に接触し、その結果同人が、被告人から殴打されたように思い込むこともありえないことではないから、右供述のみをもつて、被告人が同人の左顎を殴打したと断ずるのは、いささか早計のそしりを免れないと考える。そして、右殴打の点については、植原もこれを現認しておらず、被告人も極力否認しているところであつて、他に、当時の被告人らと加藤とのもみ合いの過程において、被告人が同人を殴打したことを推認せしめるに足りる特段の事情の認められない本件においては(なお、右傷を診察した安藤医師は、「加藤の傷は、げんこか何んかでポンとぶつたらできる傷だなと思つた。」旨供述しているが、同人自身も認めているように、同人は、殴られたということを加藤から聞かされたためにそのように思い込んだという可能性を否定できないのであり、右供述も、加藤の傷がその余の、たとえば判示のような被告人の身体との接触によつて生ずる可能性を否定しているわけではないから、これをもつて、加藤供述の積極的な裏付けとなすことはできない。)、被告人の身体の一部と加藤の左顎との接触が、被告人の殴打に基づくと認めるのは、証拠上困難であるといわなければならない。
(4) 八月三〇日の森に対するもの
右の点については、被害者森の供述を含む公判廷に提出されたすべての証拠によるも、検察官主張の事実中、判示認定にかかるもの以外は、何らその証明がない。
6 加藤及び森の傷害の程度について
加藤が負つた傷は、「加療約七日間を要する上唇裂傷および歯冠継続歯破損」ということになつているが、傷の診断にあたつた医師安藤千秋の供述によると、右上唇裂傷は、「口びるの左、真中寄り内側が赤くなつて、ささくれだつて、表皮がはく脱のような形ですが、周囲が皮下出血で紫色になつていた」という状態のものであつて、消毒程度の治療をしただけで、その後加藤は、一度も通院したことがない、という。したがつて、加藤が、右傷の加療に、現実に七日を要したかどうかは、必ずしも明らかではない。また、歯科医師小倉英世の供述によると、歯冠継続歯破損というのは、いわゆる左上の犬歯の継ぎ歯の内側が、「横幅三ミリの一ミリ(縦の意味と認められる)くらい」欠けていたというものであるが、加藤が右の件でその後通院した事実はまつたく認められず、加藤自身の表現によつても、「舌があたつて気持が悪い」という程度のもので、格別痛みを感じたり、歯がぐらついたりしたわけではない。また、右は継ぎ歯であるから、これをそのまま放置しても、右破損が原因となつて、その余の部分が、むし歯となる危険があつたとも考えられない。
つぎに、森が負つた傷は、「加療三日間を要する左拇指切創」というのであるが、右は、「左拇指の内側に、つめか何かでひつかいたような長さ1.5センチメートルくらいの切創」で、消毒剤を塗布したほか、何らの治療も行なわれておらず、森自身、受傷後しばらくは右の傷に気付いていない程で、もとより「この程度では、普通医者へは行かない。」という程度のものであつた。
このように見てくると、森の傷はもとより、加藤の傷ですら、日常生活や執務にとくに支障を来たすようなたぐいのものではなく、通常であれば、医者の手当てを受けることなく、せいぜい消毒剤を塗布する程度で放置されるような、比較的(ないし、きわめて)軽微なものであつたと認められる。
四各認定事実の可罰的評価について
労使の紛争は、微妙にゆれ動く、緊張した労使の力関係を背景として行なわれるものではあるが、元来、あくまで話合いを基調として解決されるべきものであつて、その理由がいかようなものであれ、いやしくも暴力の行使によりこれを解決しようとすることは許されない。前記のとおり、本件において、被告人らが、判示第二、二3ないし6認定のとおり、比較的軽微であるとはいえ、植原外三名に対し、有形力を行使し、そのうちの二名に対して、軽微ながら傷を負わせたことは事実であつて、この点は、右に述べた意味において、まことに遺憾なことといわなければならない。
しかしながら、当裁判所は、本件において行なわれた有形力行使の程度、方法並びに、これによつて生じた結果等をそれの行なわれた具体的状況のもとにおいて実質的に考察すると、未だこれをもつて、刑法二〇八条または二〇四条に該当する行為として処罰するに足りるだけの違法性を具有する、可罰的な行為であると断ずることはできないと考える。当裁判所が、右各行為の可罰的違法性の有無の判断にあたつて考慮した事情は、ほぼ前記第二、二において認定したところに尽きているが、以下、そのうちで、とくに重視した点を摘記し、必要に応じ若干の補足説明を加える。
1 背景的事情について
(1) 本件紛争は、もともと、加藤の偽装倒産による組合員の解雇という不当労働行為に端を発していること。この点に対する当裁判所の見解は、前記第二、三の1、2において詳細説示したとおりである。
(2) 加藤のその後の態度には、誠実に交渉に応ずるという誠意が、ほとんど認められないこと。前記のとおり、加藤は、MRSを偽装解散後も、E・コンパニオン名義で継続していた営業の実質上の主体として活動しながら、その所在をくらまして、組合との団交に応じなかつたばかりか、右営業を、ワールド興業に譲渡して、自らこれに雇われた後においては、一時、前向きの姿勢で交渉に応ずるかのような態度を示したが、結局において、決して過大とは思われない組合のバックペイの請求に対してすら、前記のとおり、まことに誠意のない回答をしている。加藤が、真実、組合との交渉に誠実に取組む姿勢であつたのであれば、当時、ある程度の金員の融通は今井から得られるはずの立場にあつたのであるから(現に、加藤は、三月末の時点で、今井から三〇〇万円もの大金を借りて、他の債務は、これをすべて返済した、という。九―一二―四一)、前記のような誠意のない回答は、とうていこれをなし得なかつたはずである。
2 八月七日の行為について
(1) 本件においては、今井も純然たる第三者ということはできないこと。組合が今井に対し、法律上の団交権を有するとまでは認められないが、MRSの営業の移転の経緯、ワールド興業の営業の実態等から見て、組合側において、同人に対し団交権を有すると信ずるに至つたとしても、あながちこれを非常識であるとして責めることはできないし、実質的に見れば、前記のとおり、今井も、組合が加藤に対する団交を求めて企業施設内に立入る程度のことはこれを許容ないし受忍し、場合によつては、自ら団交の仲介に立つべき立場にあつたと認められる(前記第二、三、3)。
(2) したがつて、被告人らが、八月七日当日、加藤、今井との団交を求めて、坂栄第一ビル一〇階の社長室に赴いた行為は、ただちに、建造物侵入罪や威力業務妨害罪を構成するたぐいのものではなかつたこと。
(3) 植原の写真撮影行為は、違法とまではいえないにしても、いささか軽率かつ性急で、妥当を欠く措置であつたと考えられること(前記第二、三、4、(1))。
(4) 被告人及び赤津の植原に対する有形力の行使は、前記第二、三、3認定のとおり、比較的軽微なものであること。右有形力の行使は、もつぱら植原の写真撮影を阻止するためのものであり、しかも、同女がいつたん座り込んだソファーから立ち上つて、執ようにも再び写真を撮影しようとしたのに対して、行なわれたもので、時間的にも短かく、社会生活上著しく常軌を逸したものとは認められない。
(5) 野崎に対する有形力の行使は、いつそう軽微で瞬間的であること(前記第二、二、4)。しかも、野崎は、加藤と密接な関係にあり、組合との紛争の経緯を知悉する者であるから、しかく簡単に被告人らに退去を求め得る立場にはなかつたと考えられるのに、被告人らと植原とのトラブルが発生するや、いち早くその場に立ち現われてくり返しその退去を求めたのである。被告人が、右のような同人の態度に抗議して、同人の胸を一回小突くように押したからといつて、ただちにこれを暴行罪として処罰するに足りる不法な有形力の行使であるということはできないであろう。なお、右被告人の行為の後に行なわれたという近藤の野崎に対する有形力の行使は、これを確認すべき証拠が存在せず、かりにこれありと仮定しても、同人の行為に対する刑責を被告人に負わせるに足りる意思の連絡が、右両名間に存在したと見ることの困難であることも、第二、三、5、(2)記載のとおりである。
3 八月三〇日の行為について
(1) 被告人らの当日の行動が、犯罪を構成すると疑われるようなものと考えるのは困難であり、これを写真撮影しようとした加藤及び野崎の行為は、社会通念上許される限界を逸脱した違法のものといわざるをえないのみならず、その主観的意図において、被告人らを挑発して、一種の混乱状態を作出しようとの気持があつたのではないかとさえ疑われること(第二、三、4、(2)参照)。
(2) 加藤に対する有形力の行使は、その違法な写真撮影を阻止しようという正当な目的に基づくものであり、その有形力行使の態様も、右目的実現のため必要な限度を逸脱した、ことさらな体当りとか殴打行為に及んではいないこと。もつとも、右の場合においては、他の場合よりもやや激しい有形力の行使があつたことは事実であると認められるが、被告人をして、右のような行為にはしらせた最大の原因は、加藤が必要もないのに至近距離から被告人らの写真を撮影した挑発的な行為にあるのであり、加藤の従前のやり口にいたく憤慨していた被告人らが、口頭による制止に応じない加藤の態度にますます不安をつのらせ、右撮影を実力で阻止してカメラを取り上げるため、多少身体が接触して有形力行使の結果となるもまたやむなしとの気構えのもとに、同人に激しくつめ寄り、赤津において後方から同人を羽がいじめにし、被告人において同人の手を振り払うなどしてこれともみ合い、その際、被告人の身体の一部が二度にわたり同人にやや激しく接触したことがあるといつて、そのことを把えて、高度の違法性ある行為ということはできないであろう。
(3) 加藤及び森の傷は、日常生活や執務にとくに支障を来たすようなたぐいのものではなく、通常であれば医師の診断を受けずに終るような比較的(ないし、きわめて)軽微なものであること(第二、三、6参照)。
(4) なお、八月三〇日の加藤に対する行為が、かりに刑法二〇四条の構成要件に該当する行為であるとの判断を免れないと仮定しても、右は、肖像権を侵害する違法な写真撮影行為に対する正当防衛行為として、その違法性が阻却されると解することが可能であると考えるが、この点は、すでに述べた事実の経過から明らかであると思われるので、詳説しない(なお、右の点については、東京高判昭和四五年一〇月九日判例時報六一九号二八頁を参照のこと。)。
4 その余の事情についての補足
当裁判所は、本件において、被告人らの側に非難さるべき行為が、まつたくなかつたと言つているのではない。加藤、今井との交渉の過程において、組合側に、やや行きすぎと思われる部分のあることは、前記第二、二認定の事実に徴して明らかであるが、いま、二、三の例を挙げると、被告人らが、昭和四七年五月二七日ころ、カメラマンを伴つて坂栄第一ビル一〇階の事務所に赴き、今井、加藤らの顔写真を含め、無断で事務所内の状況を撮影し、その際備付のパンフレット若干を持ち去つたことは、それが、都労委に対する救済命令申立の相手方に、今井をつけ加えるための資料収集という、それ自体正当な目的のためであつたとしても、やはり行きすぎの感を免れないし、同年七月八日ころ、支援団体員多数を含む十数名で右事務所に団交に赴いた際の被告人らの言辞はやや粗暴で、穏当を欠くきらいがあり、また、八月五日の団交に今井が応じられなくなつたことが、被告人らに的確に伝達されなかつたについては、今井との交渉の仲介に立つた支援団体員シマの側に手落ちがあつたと認められるのであるから、右当日の今井の態度に限つていえば、これをもつて組合が「一方的な団交破棄」であるとして、八月七日当日同人を強く追及したのは、いささか見当ちがいというほかはない。しかしながら、右のように加藤、今井との交渉の過程において被告人らの側にいくつかの行きすぎないし手落のあつたことを考慮に容れても、右交渉の過程全体からこれを見ると、結局それは加藤、今井の前記のような誠意のない態度に誘発されたものということができるのであつて(ちなみに、八月五日に今井が団交に応じられなくなつた点についても、加藤に一片の誠意があれば、同日団交に赴いた被告人らに対し、自らその点の説明をしておかしくないと思われるのに、その直前まで電話で応待していた加藤は、被告人らの気配を察知して、所在をくらませてしまつたものであつて、右のような同人の態度が、組合員の気持にいつそう不信の念をかりたて、八月七日当日の行動に重大な影響を及ぼしたことは、推察するに難くない。)、右のような点があるからといつて、本件における被告人らの行為の可罰性の程度が、著しく増大するということはできないと考える。
第三結論
以上詳細に説示するとおり、本件における被告人らの行為は、未だ刑法二〇八条(公訴事実第一、第二に対応するもの)及び同法二〇四条(同第三、第四に対応するもの)により処罪するに足りるだけの実質的な違法性を具有する、可罰的な行為であると断ずることはできず、本件各公訴事実は、いずれもその証明がないことに帰着するから、刑訴法三三六条後段により、いずれも無罪の言渡しをすることとし、主文のとおり判決する。
(永井登志彦 木谷明 雛形要松)